映画『戦火の中へ』BIGBANGの T.O.P、 本格的映画デビュー作!

映画『戦火の中へ』BIGBANGの T.O.P、本格的映画デビュー作!

『私の頭の中の消しゴム』のイ・ジェハン監督が、朝鮮戦争で儚く散った学徒兵が母親宛に綴った手紙に基づき映画化した戦争ドラマ。韓国映画界を担うスタッフとキャストによる、男たちの友情と壮絶な戦いのアクション超大作!

その勇気が未来を変えた。
届かなかった母への手紙  夢と希望を抱いた71人の感動の実話

出演は、本作が映画デビュー作となるBIGBANGのT.O.P、「天国の階段」以来日本で圧倒的な人気を誇るクォン・サンウ、「IRIS -アイリス-」のキム・スンウなど。

タイトル 戦火の中へ 71 In to the Fire
監督 イ・ジェハン
脚本 イ・マニ
製作 チョン・テオン
出演者 クォン・サンウ
チャ・スンウォン
T.O.P.(BIG BANG)
音楽 イ・ドンジョン
製作会社 テウォン・エンタテインメント
配給 韓国 ロッテ・エンターテインメント
日本 角川映画
公開 韓国 2010年6月16日
日本 2011年2月19日
上映時間 121分
製作国 韓国

あらすじ

1950年。朝鮮人民軍が軍事境界線を越えて進撃したことで始まった朝鮮戦争で韓国軍は首都・ソウルを陥落されるなど劣勢を強いられ、ついには朝鮮半島南端まで追い詰められてしまった。そこで韓国軍は全兵力を洛東江流域に集中させ反撃を試みることとなった(釜山橋頭堡の戦い)。しかしそのことで戦略上の拠点である浦項に 駐留していた部隊も移動することとなってしまうため、部隊司令部を置いていた女学校の校舎の防衛には71名の学徒兵を動員することにした。中隊長となった 少年・ジャンボムは同じく動員された不良グループとの衝突などもあったがなんとか71名をまとめ、そのことを手紙に綴って母に送っていた。

やがて朝鮮人民軍「766部隊」が南下。部隊長のパク少佐は「洛東江へ進撃せよ」という上官の命令を無視し、「最終拠点である釜山への近道」であるという理由で浦項へのルートを選択してきた。「女学校には学徒兵しかいない」という情報を聞いたパクは学徒兵に降伏を要求するもジャンボムはこれを拒否。やがて766部隊は校舎に対して砲撃を開始した…。

キャスト

俳優 役柄
クォン・サンウ ク・ガプチョ(学徒兵で不良グループのリーダー)
T.O.P.(BIG BANG) オ・ジャンボム(学徒兵をまとめる中隊長)
キム・スンウ カク・ソンテ(韓国軍大尉。ジャンボムを中隊長に任命した)
チャ・スンウォン パク・ムラン(朝鮮人民軍少佐。766部隊長)
パク・ジニ ファラン(軍属の看護婦)

釜山橋頭堡の戦いとは

釜山橋頭堡の戦い(プサンきょうとうほのたたかい)は、1950年の8月から9月にかけて、釜山付近で立てこもる国連軍と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われた戦闘である。

第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将が、朝鮮半島の過半を北朝鮮軍が手中にしている状況で、全前線を後退させることで戦闘正面を縮小して兵力を集中させる「朝鮮戦争で一番重要な判断と決心」を行い、これを実行した。

経緯

1950年6月25日の北朝鮮の奇襲攻撃による開戦以来、大田の戦いに至る遅滞戦闘でアメリカ軍は大きな損害を受けていた。

ソウルと釜山のほぼ中間点にある大田(テジョン)は京釜本道や京釜線が通る交通の要衝で、ソウルを追われた韓国政府の臨時首都でもあった。アメリカ軍、韓国軍は大田を中心として北朝鮮軍を迎え撃ったが7月20日に北朝鮮軍2個師団の包囲攻撃で陥落して、韓国政府は大邱(テグ)に後退した。

開戦から戦い続けていたアメリカ軍第24歩兵師団(英語)は一連の戦闘で兵力の45%(7,305名)、装備の60%を喪失し、師団長であるディーン少将が捕虜になる大敗を喫した。

北部の防御戦闘

在日米海軍辻堂演習場で上陸訓練を行った第1騎兵師団(ゲイ少将)は、7月15日、横須賀を出航した。水陸両用戦群の第90任務部隊(TF-90、ドイル少将(英語))により7月18日に浦項(ポハン)に到着。同日夜半までに約1万名の兵員、約2,000両の車両、約2,800トンの資材が揚陸された。

第1騎兵師団は大田の防御戦闘への展開を意図し上陸したが、到着する前に大田は陥落した。そのため、永同(ヨンドン)方面を、第25歩兵師団(キーン少将)は尚州(サンジュ)正面を、韓国軍は咸昌(ハムチョン)-安東(アンドン)-盈徳(ヨンドク)を防御することになった。

永同の第1騎兵師団は戦力が揃わず、避難民に紛れて襲撃してくるゲリラへの対策に苦慮し、また北朝鮮軍に包囲されかかったために、7月29日に金泉に後退した。尚州正面の第25歩兵師団は、第27連隊(英語)(マイケレス中佐(en))が4日間の効果的な遅滞戦闘で北朝鮮第2師団に大きな損害を与えた。

韓国軍は、首都師団(金錫源准将)と第2師団が第1軍団(金弘壹少将)を構成して洛東江北岸の安東地区の防御を行った。北朝鮮軍は第2軍団の第12師団が安東を強襲したが、韓国第1師団を撃破できずにいた。しかし韓国軍は8月に安東を撤退して洛東江防御線の陣地に移動した。

西側面の防御戦闘

事態は急速で、7月20日から7月23日にアメリカ軍は空中偵察により群山から全州(チョンジュ)に東進する北朝鮮第4師団を発見した。この大部隊を放置すれば兵力が少ない西側面から釜山が危険にさらされることが判った。第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将は、大損害により7月22日に予備兵力とされたばかりであった第24歩兵師団に西側面への移動を命じた。また、在沖縄アメリカ軍も、訓練を行う間もなく朝鮮半島に急送され西側面に投入された。

馬山の防御

釜山西方45キロメートルの馬山の防御は焦眉の急となった。7月30日、第8軍は唯一の予備兵力として倭館に集結していた第27連隊を馬山に投入することを決定した。馬山正面には北朝鮮第6師団が確認された。

8月1日に尚州南側で防御中の第25歩兵師団が馬山に転用された。これは240キロメートルを36時間で鉄道輸送される素早いものであった。

7月23日にハワイを出発して7月31日に釜山に到着した第5連隊戦闘団と第8072戦車大隊A中隊のM26パーシング14輌も、ともに8月3日に馬山に到着して第24歩兵師団、次いで第25歩兵師団の指揮下に入った。

総括

国連軍はそれまでの戦力の逐次投入による受け身の遅滞行動ではなく、北朝鮮軍の強制に依らずに釜山橋頭堡へと後退することで戦線を構築し、敵攻勢正面に対する機動反撃の反復を行い北朝鮮軍の攻撃に耐えた。

戦場では常に2機の戦術航空統制班が在空し、地上からの援助要請に応えた。第5空軍は7月30日の段階でジェット戦闘機F-80を626機、F-51を264機を保有し、日本の板付基地や延日飛行場から出撃した。近接支援出撃機数は、7月が4,436機、8月が7,028機、9月が6,219機であり、8月で1個師団あたり1日平均で40機が支援に出撃した。

アメリカ極東空軍は7月から8月の間にジェット戦闘機F-80を装備した6個飛行隊を、低空での行動半径のより長いレシプロ戦闘機F-51に機種改編した。戦闘爆撃機の誘導を行う前線航空管制官は2個飛行隊50機が展開し、制空権を持たない北朝鮮軍に対し昼間の戦闘で大きな効果を上げた。

兵站が続かず飢餓に悩まされた北朝鮮軍は攻撃の最後列に督戦隊を配置し、兵士を射殺するなどの強硬手段で部隊を維持した。韓国軍が奪回した陣地では足を鎖で縛られ機関銃の引き金を引けるだけの状態の兵士が発見された。しかし北朝鮮軍は各所で撃退され攻撃衝力を失っていった。

9月15日の仁川上陸作戦が成功を収めると、9月22日、ウォーカー中将は第8軍への総反撃を命令した。後背地と遮断された洛東江戦線の約10万人の北朝鮮軍は北朝鮮本土への離脱に失敗し、壊滅した。